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記者時代の取材秘話3
スカルノ大統領失脚の時
持田直武 国際ニュース分析




スカルノ大統領の官邸だったジャカルタのムルデカ宮殿の通用玄関(撮影1967年2月)
この奥に秘書が待機、訪問者リストがあった。 記者団は玄関入り口で待機していた。

オリジナル記事 2002年8月28日掲載

・鍵を握っていた日本人

 1967年2月22日夜、スハルト閣僚会議議長が記者団を閣議の部屋に招き入れた。異例のことだった。私もジャカルタ支局のカメラマンと一緒に入ると、まもなくジア情報相が駆け込むように入って来た。そして、持ってきた一枚の厚い紙を閣僚たちに見せ、次に記者団の前に高々と掲げた。スカルノ大統領の声明である。

 それには、「スカルノはインドネシアの大統領、及び国軍最高司令官の全権限をスハルト将軍に委譲する」と書いてあった。日付は2日前の2月20日。だが、その下のスカルノの太いサインはまだ乾き切らず、カメラのライトを反射して滲んで見える。直前にサインしたことがありありとしていた。20日に全権委譲に同意したが、実際にサインするまで2日間、スカルノが最後の抵抗をしたことを示していた。

 実は、その20日の日、私はこの全権委譲同意の情報を掴んだ。出所は当時ジャカルタに滞在中のH氏という日本人。同氏はその日、スハルト議長に面会、スカルノ、スハルト間で合意が成立したことを聞いたのだ。同氏がどんな資格でスハルト議長に会ったのか、今もわからない。ただ、当時の三木外相と頻繁に連絡を取り、激動するインドネシア情勢に深くかかわっていたことは間違いなかった。


・スハルト、スカルノを追い詰める

 1965年9月30日、大統領親衛隊大隊長ウントン中佐のクーデター未遂事件が勃発、これに建国の英雄スカルノが関与した疑いが生じてから1年半。インドネシアは、スカルノとスハルト両者の抗争で揺れた。スハルトが米国や日本の支援を得て、中国や第三世界志向のスカルノを追い落とそうとしたのだ。その最後の局面が67年2月だった。

 私はその取材のため急遽ジャカルタに飛び、ムルデカ宮殿(大統領官邸)に日参した。と言っても、初訪問のジャカルタで、土地感も無く、知り合いも無しの状態。宮殿の通用門で、その日の訪問客のリストを見るのが唯一の仕事と言ってもよかった。20日も、リストを見ていると、その中にH氏の名前があったのだ。その頃、宮殿を訪問した唯一の日本人だ。探し出して話を聞かなければならない。

 当時のジャカルタで外国人が泊まるホテルは限られていた。日本の賠償で建てられたホテル・インドネシアが第一の候補。私の直感は当たり、その夜、部屋に戻って来た同氏と会って、面会の相手がスハルト議長だったことがわかる。

 H氏の話によれば、同氏はその日午前8時半から1時間、スハルト議長と会談した。その席で、同議長は次のような話をしたという。1)スカルノ大統領は20日付けで同議長に全権を委譲する。2)これは19、20日の両日、スカルノ、スハルト、それに4軍の司令官がジャカルタ近郊のボゴール宮殿で会談した際に決まった。3)この合意内容は翌21日に国軍司令官会議にはかり、そのあと国民に公表する。

 実は、私も18,19の両日、ボゴール宮殿の会談の取材に出かけた。内外の大勢の記者団が集まったが、会議場の取材は許可されず、関係者は固く口を閉ざしたままで、内容は外部にまったく漏れなかった。


・もう一歩の確認が取れず

 H氏の話は、同宮殿の密室で何が進行したかを物語っていた。この内容が正確なことはその後わかるが、20日の段階ではまだ真偽の確証がなく、報道するためには他の材料で確認する必要があった。確認できれば、国際的なスクープになる。しかし、それができないまま、その日は終わった。ジャカルタは当時、夜は外出禁止で取材はまず不可能。国際電話も夜はつながらず、東京と連絡を取ることもできなかったのだ。

 私は朝早く、ジャカルタの日本大使公邸を訪ねた。大使ならH氏の話を裏付ける情報を持っていると思ったからだ。大使は公邸の庭で若い館員たちと東京から来たプロ・ゴルファーを囲み、スイングの練習中だった。私がスカルノの全権委譲の話を切り出すと、大使は即座に否定した。H氏についても知らないという。取り付く島もなかった。 大使は外務省の経済協力局長を歴任、インドネシアとの経済協力問題のエキスパートだ。同国の内部事情には精通している。あとでわかったことだが、日本人プロ・ゴルファーも、スハルト議長がレッスンを受けるために日本から招いたのだという。大使が全権委譲を知らない筈はなかった。しかし、私と大使は初対面、情報を漏らさないのも当然と思わなければならない。

 一方で、全権委譲をめぐる状況もスハルト議長の思惑通りには進行しない。同議長がH氏に話した通りに事態が進めば、21日には全権委譲が公表される筈だった。しかし、そうはならなかった。スカルノ大統領が最後の抵抗を試みたからである。


・スカルノ、軍事裁判の回避でねばる

 スカルノ、スハルト抗争の焦点の1つは大統領の権限委譲問題だが、その他にもう一つ、スカルノをクーデター事件加担の容疑で軍事裁判にかけるという問題があった。軍の強硬派がこれを強く主張し、議会も裁判を要求する決議案を可決した。また、当時進行中のクーデター関係者の裁判で、スカルノ大統領が加担したことを疑わせる次のような事実も浮上していた。

 9月30日深夜、大統領親衛隊のウントン中佐が共産党と連携してクーデターに決起した時、スカルノ大統領はジャカルタ市内のデヴィ夫人宅にいた。事件の一報を受け、翌朝6時半ムルデカ宮殿に車で向かうが、途中で方向転換して郊外のハリム空軍基地に入った。クーデターで同基地が共産党の軍事拠点になり、同党幹部のスパルジョ准将の支配下にあったのに、なぜ大統領は行ったのか。

 また同基地で、スパルジョ准将は配下の部隊がヤニ陸相はじめ陸軍の幹部6人を殺害したと大統領に報告した。大統領の部下が殺害されたわけだが、これに対し、なぜ大統領は何の措置も取らなかったのか。また午後1時、クーデター派が「革命委員会」の結成をラジオで放送。現政権の打倒を主張したのに対し、なぜ大統領は何の措置も取らなかったのか。

 その日午後、戦略予備軍司令官スハルト少将(当時)が指揮下の部隊を動員してクーデター派に反撃を開始、空軍基地を攻撃する態勢を取り、クーデターの失敗がほぼ確実となった。この段階で、スカルノ大統領はようやく同基地を出て、ジャカルタ郊外のボゴール宮殿に避難した。それまで再三にわたって側近が同基地を出るよう進言したが、聞き入れなかったのはなぜか。

 軍の強硬派はこれらの疑惑を基に、裁判でスカルノ大統領の責任を追及すべきだと主張したのだ。当時の軍と同大統領の力関係では、軍の主張が通る可能性が強かった。全権を委譲すれば、その可能性はさらに高まり、裁判で有罪は避けられないとみられた。そうなれば、建国の英雄としてのスカルノの権威は抹消される。スカルノが全権委譲に一旦同意したあと、サインを引き延ばして最後までねばったのは、実はこれを避けるためだった。


・スカルノ、デヴィ夫人の出産に大喜び

 2月22日、閣僚会議で全権委譲の大統領声明が公表された時、スカルノを裁判にかける件はまったく言及されなかった。記者団は写真撮影を許されたが、質問は禁止された。

 それから数日、あれほど強かった裁判への要求が次第に消えていった。軍部も政党も急進的な学生団体も裁判のことは口にしなくなった。スカルノ大統領の最後のねばりが実ったことは明らかだった。

 スカルノ大統領は全権を委譲したあともムルデカ宮殿に住み、週末になると何時ものようにヘリコプターで近郊のボゴール宮殿に出かけた。宮殿通用玄関の訪問者リストには何時ものように訪問者の名前が書き込んである。その中にインドネシアの著名な伝記作家の名前もあった。大統領の秘書によれば、スカルノ大統領が自分の伝記を書く準備を始めたのだという。

 何日かして、NHK外信部から「東京滞在中のデヴィ夫人が女児を出産した」という情報が届いた。私がこれを宮殿の大統領秘書に伝えると、折り返し、大統領が大変喜び、名前を考えたので伝えて欲しいという返事が返ってきた。全権委譲のあと、大統領が外国との連絡を絶たれたことを示していた。

 H氏は帰国する前、スハルト議長の従兄弟という実業家を私に紹介してくれた。何日かして、その彼から連絡があり、伝言を東京のH氏に伝えて欲しいという。それは次のような内容だった。「インドネシアはH氏の返事を待ち焦がれている。約束の実行を催促してください」。当時、NHKは東京とジャカルタを無線で結ぶPTSという通信手段で原稿の送稿や連絡をしていた。彼はこれを知って伝言を依頼してきたのだ。内容は一実業家の商取引だけではないような気がしたが、確認はできなかった。

(持田直武)


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