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東南アジアに広がるイスラム過激派テロの不安
持田直武 国際ニュース分析

APA リポート(02・1)寄稿 持田直武

・まえがき

 2002年初頭、米ブッシュ政権はフィリピンに特殊部隊を派遣、同国の国軍と大規模な合同軍事演習を開始した。 テロ組織アブ・サヤフという生きた標的を対象にする前例のない演習である。 同政権は同時にマラッカ海峡にも海軍艦艇を出動させ、同海峡を通過する米船舶の護衛にあたっている。 米国が東南アジアでこのように広範囲に軍事力を展開するのはベトナム戦争以来初めてである。

 同時多発テロ事件以降、世界の関心はアフガニスタンや中東のイスラム世界に向きがちだった。 しかし、東南アジアでもイスラム過激派が勢力を拡大、テロの不安が広まったのだ。 シンガポールでは米国はじめ各国大使館や米軍艦船をねらう大規模なテロ計画が摘発され、 ビン・ラディン氏やアル・カイダが背後で動いた証拠も出ている。 フィリピン、インドネシア、マレーシアのイスラム過激派が国境を越えて連携する動きもある。

 ウオルフォビッツ米国防副長官はアル・カイダがこの地域に聖域を作りかねないとして、 今後の軍事行動の対象にフィリピン、インドネシアの名前を上げている。 ブッシュ大統領も1月の一般教書演説で、「これら諸国が行動しないなら米国が行動する」と強調した。 ブッシュ政権はインドネシア、フィリピンの治安維持能力に不安を抱いているのだ。 では、同政権にはどんな戦略があるのかだが、ワシントン・ポストの社説は 「同政権がそれを持っているかどうか定かではない」と言う。

 今のところ、ブッシュ政権は米国単独で対応する方針で、アフガニスタンの場合のように 各国の協力を求めてはいない。しかし、日本にとっても、マラッカ海峡は経済の大動脈であり、 周辺地域の安定には日本の国益がかかっている。事態が悪化すれば、日本としても何らかの対応を考えなければならなくなるだろう。


第一章 フィリピン

人口:7,533万人(2000年)
宗教:カトリック(84%、ルソン島など北部)、イスラム教(4.6%、ミンダナオ島など南部)、プロテスタント(3.9%)


1)フィリピンのイスラム過激派アブ・サヤフとアル・カイダの関係

 現在、フィリピンで活動しているイスラム系の反政府組織は3つある。アブ・サヤフとモロ民族解放戦線(MNLF )、それにモロ・イスラム解放戦線(MILF)だ。3つとも南部のミンダナオ島、パラワン島、スル諸島などイスラム系住民が多い地域を地盤としている。この3組織のうち、もっとも過激なのがアブ・サヤフである。幹部の多くは1979年から89年、アフガニスタンでソ連軍と戦ったフィリピン出身のムジャヒディン(聖戦の戦士)だ。ビン・ラディン氏やアル・カイダの幹部とは戦友だったことになる。

 アブ・サヤフは1991年、ムジャヒディンの1人、アブドラバク・アブバカル・ジャンジャラニが中心になって結成した。現在中核となる戦闘員は約200人、動員兵力は最大2000人と推定されている。しかし、リーダーのジャンジャラニは98年12月、バシラン島で起きた警察隊との銃撃戦で射殺された。後継を争そって指導部が分裂したが、その後、弟のカダフィ・ジャンジャラニが後継のリーダーに就任した。(注1)

 ジャンジャラニ兄弟のようなフィリピンのムジャヒディンで、現在も活動しているのは600人から1000人。その多くはアブ・サヤフに参加し、残りがモロ・イスラム解放戦線に加わっているという。彼らがムジャヒディンになったのは、ソ連軍のアフガニスタン進攻に対抗して、米CIAがゲリラ戦を企画したのがきっかけだ。

 79年12月、ソ連軍が進攻すると、当時のカーター政権はただちにCIAの秘密作戦を発動。1年後に就任したレーガン政権もこれを継承。特に、レーガン政権のケーシーCIA長官がイスラム諸国の協力のもと大規模なゲリラ戦を推進する。CIAが各地にダミー会社や団体を設立して青年を募集、パキスタンでゲリラ戦の訓練をし、アフガニスタンの戦場に送り込んだのだ。この訓練をパキスタン軍の統合情報部(ISI)が担当、資金は米政府とサウジアラビアが拠出、CIAも各国で献金を集めた。

 フィリピンでも、CIAの下請け組織がイスラム系住民の地域で兵士の募集を行ない、千人を越える青年が応募した。月額100ドルから300ドルの給与が魅力だったこともあるが、同時にイスラムの同胞を共産主義から守るという意識もあった。このムジャヒディン(異教徒と戦う聖戦の戦士)の意識が現地での戦闘を経てさらに強まったことは容易に想像できる。(注2)

 ソ連進攻後の10年間、こうして集まったイスラム青年は43カ国、3万5000人。パキスタンの訓練基地で訓練を受けるなど何らかの形で接触を持ったのは10万人にのぼるという。そして、アフガニスタンの戦場では7つのグループに分かれてソ連軍と戦った。その中にフィリピン出身のイスラム青年も加わった。別のグループにはサウジアラビアの大学を卒業して参加したビン・ラディン氏もいた。

 フィリピン青年たちはアフガニスタン出身のアブドル・ラスル・サヤフ教授の指揮するグループに配属される。同教授はエジプトの名門アル・アズハル大学の出身で、7つのゲリラ・グループの中では最も若いリーダーだった。フィリピン出身の青年たちが帰国して結成したアブ・サヤフは、このリーダーの名前からとったもので、「剣を運ぶ者」を意味するという。(注3)

(注1)Patterns of Global Terrorism, Department of State, April 2001
(注2)非聖戦 ジョン・K・クーリー著 平山健太郎監訳 筑摩書房
(注3)CNN Internet Archive, Abu Sayyaf Group


2)フィリピンとビン・ラディン氏をつなぐ糸

1989年、ソ連軍がアフガニスタンから撤退すると、各国から来たムジャヒディンたちも帰国する。フィリピン出身ムジャヒディンも帰国、その多くは最初モロ民族解放戦線(MNLF)に加わった。同解放戦線は70年代の中頃が最盛期で、動員兵力は3万人といわれ、この勢力を背景に政府と和平交渉を開始した。しかし、これに不満な一部の過激派が77年に脱退してモロ・イスラム解放戦線(MILF)を結成し、モロ民族解放戦線の勢力は下り坂になる。

 そして91年、アフガン帰りのムジャヒディンたちもモロ民族解放戦線から離脱して自分たちの組織、アブ・サヤフを結成した。組織としては、他の2つの解放戦線より小規模だが、あらゆる面ではるかに過激であり、ビン・ラディン氏のアル・カイダと資金面、人の面でつながり、活動でも連携している。(注4)

 ビン・ラディン氏もソ連軍撤退後、サウジアラビアに帰るが、その直前、同氏はアル・カイダ(The Base)を組織する。同氏の大学時代の恩師アブドラ・アザム教授が84年に組織したマクタブ・アル・キドマット(Service Center)という組織がその母体になった。アザム教授は学生時代のビン・ラディン氏にパン・アラブ思想をたたき込み、一緒にアフガニスタンのゲリラ戦に参加した。マクタブ・アル・キドマットはその戦いに参加した各国ムジャヒディンに物資補給や資金配布を行なう組織で、サウジアラビアのプリンスなど有力者が匿名で献金したという。

 アザム教授はこの組織を通じてゲリラ戦のリーダーたちと交流を深め、特にフィリピン出身ムジャヒディンのリーダー、アブドル・サヤフ教授、パキスタン・ムジャヒディンを統括する立場のグルブディン・ヘクメティアル氏との関係が深かった。こうした関係を通じ、アザム教授の教え子ビン・ラディン氏がフィリピンやパキスタンのムジャヒディンとの人脈を築いたことも容易に想像できる。

 しかし、アゾム教授はソ連軍撤退のあと、帰国準備をしていた時、暗殺される。2人の息子も一緒だった。このため、ビン・ラディン氏が遺志を継いで新組織アル・カイダを結成した。メンバーの中心は各国出身のムジャヒディンたちで、これもマクタブ・アル・キドマットを通じて拡大した国際的人脈が基礎になっている。(注5)

 アル・カイダの結成とともに、ビン・ラディン氏はパキスタンのペシャワール北方のゲリラ訓練基地に巨額の資金を出すようになった。そして、腹心のラムジ・アハマド・ユーセフはじめアル・カイダ幹部を滞在させ、アフガニスタンから帰国途中のムジャヒディンの再訓練や新しく募集したイスラム青年の訓練をした。フィリピンのムジャヒディンの一部もこの基地で訓練を受けたことが明らかになっている。(注6)

 ビン・ラディン氏は98年、米タイム誌のインタビューに答え、アル・カイダを結成して活動家を訓練した目的について、「イスラム世界から異教徒を追放し、腐敗した現体制を打倒、イスラム世界にイスラム法に基づく統一政府を樹立するため」と説明した。(注7)アル・カイダがフィリピンのアブ・サヤフ集団と手を結んだのも、この目的のためだ。

(注4)CNN Internet Archive, Abu Sayyaf Group
(注5)Taliban:Militant Islam, Oil and Fundamentalism in Central Asia. Ahmed Rashid. Yale University Press
(注6)非聖戦 
(注7)TIME October 15, 2001


3)アル・カイダ幹部のフィリピン滞在記録

 2000年4月、アブ・サヤフのメンバーの一団が海を越えてマレーシアのリゾート地に侵入、フランス人やドイツ人も含め21人を人質にする事件が起きた。この時、フィリピン政府に送りつけた要求の中で、アブ・サヤフは当時米国の刑務所に服役中だったビン・ラディン氏の腹心ラムジ・アハマド・ユーセフの釈放を要求する。アブ・サヤフの活動がアル・カイダと連携していることを示す出来事だった。

 ユーセフは93年2月の世界貿易センター爆破の共犯として終身刑が確定した。彼は事件から2年後の95年2月にパキスタンのアル・カイダのアジトで逮捕されるが、その逃亡中の1年あまりフィリピンに滞在し、アブ・サヤフ兵士の訓練をしていたのだ。 ユーセフが逮捕されたあと、フィリピン警察がマニラにあった彼の潜伏先を捜索、大量の記録を詰め込んだコンピューターを押収した。この記録の解読から、アブ・サヤフとビン・ラディン氏の連絡経路、資金の流れなどが判明した。(注8)

 同時にもう1人のビン・ラディン氏の腹心アブドル・ハキム・ムラドが当時フィリピンに滞在していることもわかり、逮捕された。そして、彼の自供からアル・カイダが95年1月、ローマ法王がマニラを訪問した時に暗殺する計画だったことや、米国の旅客機12機を同時に爆破、またはハイジャックし、そのうち1機がバージニア州の米CIA本部に突入する計画だったこともわかる。

 もう1人、アブ・サヤフとビン・ラディン氏のつながりを示すのが、同氏の義兄弟モハマド・ジャマル・カリファの87年から95年にわたるフィリピン滞在である。彼はビン・ラディン氏の姉妹の1人と結婚していたが、フィリピンでも現地の女性と結婚。一方で、10余りの会社、慈善団体を設立し、実業家、慈善事業家として振る舞った。しかし、フィリピン政府当局はこれら施設がビン・ラディン氏の資金をアブ・サヤフやモロ・イスラム解放戦線に流すトンネル会社だったとみている。(注9)

 ユーセフら3人が95年に逮捕、または国外に逃亡したあと、フィリピン政府はアル・カイダ関係者の足跡はないとみていた。しかし、01年9月の米の同時多発テロ事件後、米情報機関がアフガニスタンのアル・カイダの拠点などで膨大な資料を収集。この資料の分析の結果、アル・カイダがフィリピンはじめ東南アジア各国に組織的に浸透していることがわかる。

 フィリピン政府はこの情報に基づいて、01年12月から01年1月にかけてアル・カイダの活動家とみられる5人を逮捕する。その1人がインドネシア人のファテュル・ローマン・アル-ゴジで、逮捕と同時に爆発物1トン、爆破用のワイヤー、米国に対する聖戦を呼びかける文書などを押収した。この爆発物はシンガポールが摘発した大規模なテロ計画のために調達したものと見られているが、このテロ計画については後述する。彼はユーセフが去った後、96年からフィリピンに出入りし、アル・カイダとアブ・サヤフ、それにモロ・イスラム解放戦線(MILF)の連絡役だった他、シンガポールやマレーシアの過激派組織とも関係があったとみられている。(注10)

(注8)CNN インターネット版 2001年9月28日
(注9)注2の非聖戦、および注8のCNNと同じ
(注10)International Herald Tribune, January 21, 2002


4)アブ・サヤフの米宣教師誘拐と人質虐殺が米世論を刺激

 アブ・サヤフは組織を結成すると、直ちに過激なテロ活動を展開、その数は警察が記録しただけでも最初の4年間に105件に達した。主なものは爆破、殺人、誘拐と身代金奪取。狙われたのは、富裕なキリスト教徒が経営する会社、農園、キリスト教徒の多い地区の教会、それに空港、港湾などの公共施設。中でも、アブ・サヤフの特徴は金持ちや外国人観光客を誘拐して法外な身代金を取ることだ。そして、その要求を通すために人質の首を切り落とすこともあり、すでに10人が犠牲になったとの報道もある。

 その1つが2000年4月、同グループの一団が海をわたってマレーシアの観光地シパダン島に侵入、ダイビング中の21人の観光客を誘拐した事件。人質の内訳はドイツ人3人、フランス人2人、フィンランド人2人、フィリピン人2人などだ。その直前、別の場所でフィリピン人の人質2人の首を切り落とし、恐怖感を高めた上での犯行だった。政府は治安部隊を出動させ、制圧と交渉の両面作戦に出るが失敗。結局、2000年夏、リビアのカダフィ議長が仲介して人質は解放されたが、その際少なくとも2500万ドルの身代金が支払われたという。(注11)

 また2001年5月にも、アブ・サヤフはフィリピン南部のパラワン島で、カンザス州出身の宣教師マーチン・バーナム氏とグレーシア夫人、カリフォルニア州出身のギエルモ・ソブレロ氏など米国人3人、フィリピン人17人を誘拐。1ヵ月後、ソブレロ氏の首を切り落としたと発表する。米FBIは捜査チームを派遣してフィリピン政府と協力、人質解放を試みるが、成功せず、ソブレロ氏の生死も確認できない。その一方、米テレビ局にはアブ・サヤフから斬首を証明するビデオ・テープを売るとの連絡があった。(注12)

 こうしたフィリピンの状況悪化に米国内の危機感が高まった。議会は12月上旬、上下両院がフィリピンのテロ対策を支援する決議を採択。人質になった宣教師バーナム夫妻の地元、カンザス州選出のタイアート下院議員はフィリピンを訪問してアロヨ大統領と会談し、人質の救出に尽力するよう求めた。ホワイトハウスのフライシャー報道官も02年1月24日、「米政府は米国人が人質に取られるのを黙認したことはない」と述べ、ブッシュ政権が何らかの手を打つことを示唆した。

(注11)非聖戦
(注12)非聖戦


5)積極的なブッシュ政権と慎重なアロヨ政権の内幕

 フィリピン国内は2000年、エストラダ大統領の弾劾問題で政治が混乱、政府はテロに対して効果的な手が打てなかった。しかし、01年初頭にアロヨ大統領が就任し、テロ対策でブッシュ政権に協力を求める方針を打ち出した。これに答えて米側も6月、FBIがフィリピンに誘拐事件を捜査するチームを派遣。10月にはブッシュ大統領が最初の陸軍特殊部隊チーム20人の派遣に踏み切った。

 そして02年1月からは特殊部隊160人、対テロ作戦の専門家など合計650人の大部隊を派遣、南部のミンダナオ島、バシラン島、ホロ島などアブ・サヤフの拠点を中心にフィリピン国軍と大規模な合同軍事演習を展開している。ラムズフェルド国防長官は1月16日の記者会見で、米軍の目的は「フィリピン軍の訓練、補給の支援、演習への参加」と述べるが、同時に「米国民が人質にされている事実が米側の行動を前向きにしている」と語り、ブッシュ政権の積極姿勢を強調した。

 同政権関係者は、演習で米軍は攻撃されれば反撃すると述べ、米軍が直接戦闘に参加する可能性もあること。また、演習の期限は一応6月を目処にするものの状況次第で延長し、参加兵力もさらに増派して1000人を超える可能性があることを明らかにしている。フィリピンのティグラオ大統領報道官も今回の演習はアブ・サヤフという「生きている標的を対象にする初めての試み」と述べ、演習が通常のものでないことを認めている。

 ブッシュ政権の積極姿勢に対し、アロヨ大統領は極めて慎重な姿勢だ。理由の1つは、87年制定のフィリピン憲法が補正25条で、外国の軍隊、基地、施設を国内に置くことを禁止していること。このため議会では、上院のドリロン議長はじめ3人が今回の米軍の規模、滞在の長さなどが憲法違反にならないか審査すべきだとの決議案を提出した。野党内には、この問題でアロヨ大統領は弾劾の危機に直面するとの見方もある。(注13)

 一方、米軍に関するアロヨ大統領の立場は1951年の米比相互防衛条約と99年批准の「訪問米軍の地位に関する協定(VFA)」の2つが根拠。しかし、この2つは米軍の演習参加を認めるだけで、戦闘参加は認めていない。このため、米軍がブッシュ政権の積極姿勢を背景にアブ・サヤフの攻撃に対して、反撃するような事態になれば、たとえ正当防衛でもアロヨ政権には大きな打撃になりかねない。

 アロヨ大統領は01年11月に訪米、ブッシュ大統領と会談して武装ヘリや武器弾薬など1億ドル近い支援を取り付けた。この時、ブッシュ大統領は米軍の直接戦闘参加についても提案したが、アロヨ大統領が断ったという。(注14)その代わりに両首脳は2年前から実施している合同軍事演習を拡大して実施することで合意。しかし、その演習はアブ・サヤフという「生きた標的を対象にする」実戦に限りなく近い演習となった。

 アロヨ大統領の消極姿勢のもう1つの理由はフィリピン国軍内に不穏な動きがあることだ。同大統領は02年1月14日、レイエス国防相に対してミンダナオ島の地区軍幹部の忠誠心をチェックするよう指示した。同地区の部隊は米軍との合同演習に参加する予定だが、隊内には劣悪な装備や待遇についての不満があり、アロヨ政権に叛旗をひるがえす恐れがあるからだ。(注15)

 アロヨ大統領が昨年就任、任期は04年6月までだが、政界や軍内には同大統領は暫定との見方が露骨で、有力者の中には次期政権を目指す動きも目立つ。軍や警察内にも、次期政権の重要ポストをねらって動く幹部もあり、軍部のクーデターがあるとのうわさも絶えない。同大統領はブッシュ政権からはテロ対策を強く迫られる一方で、頼みの国軍には 何時裏切られるか、不安の板ばさみなのだ。

(注13)CNN インターネット版 2002年1月16、17日
(注14)Washington Post, December 22, 2001
(注15)Daily Tribune (Manila), January 15, 2002


第二章 マラッカ海峡周辺諸国の動き

シンガポール:人口 326万人(2000年)中国系(仏教77%)、マレー系(イスラム教14.1%)、インド系(ヒンズー教8%)

マレーシア:人口 2,270万人(1999年)マレー系(イスラム教61%)、中国系(仏教30%)インド系(ヒンズ ー教8%)

インドネシア:人口 20,926万人(1999年)イスラム教(87.6%)、プロテスタント(6.07%)、カトリック(4.0%)、ヒンズー教(1.84%)


1) ブッシュ政権、マラッカ海峡で米船舶の護衛パトロール開始

 米太平洋軍のブレアー司令官は01年12月、米海軍がマラッカ海峡を通過する米船舶の護衛にあたっていることを明らかにした。アフガニスタンに運ぶ重要物資が東南アジアの過激派の攻撃を受けるのを防ぐためで、海峡周辺国のシンガポール、マレーシア、インドネシア3カ国と取り決めを結び、11月初めから開始したという。  この取り決めに基づいて米と海峡周辺3カ国は安全確保の協力体制を組織。米側が重要物資を積み護衛が必要と判断した場合、それを3カ国にも連絡。各国はその船舶の運航状況を監視し、特別の注意を払うという。ブレアー司令官はこれまでにも、アル・カイダがすでに東南アジアに組織を拡大しており、マラッカ海峡の安全航行対策が必要なことを強調していた。(注16)

 一方、ウオルフォビッツ国防副長官は02年1月7日、ニュー・ヨーク・タイムズとの インタビューで、アフガニスタン後の対テロ戦争の対象として、ソマリア、イエメン、イ ンドネシア、フィリピンの4カ国を上げ、これら諸国が今後テロリストの聖域となるのを 阻止しなければならないと強調した。

 そして、インドネシアについて、ウオルフォビッツ副長官はスマトラ島北部やスラウエシ島で民族紛争や宗教紛争が拡大して治安が悪化し、過激派とテロリストが手を結んで聖域をつくる可能性があると指摘。ブッシュ政権はこれを阻止するため支援の用意があると述べた。(注17)また、ブッシュ大統領も1月29日の一般教書演説で、「これら諸国が行動しないなら米国が行動する」と強調した。

 ブッシュ政権関係者がこのような強い危機感を持つのは、アフガニスタンで収集したアル・カイダ側の情報によって、同組織が東南アジア各地のイスラム過激派やイスラム系団体に予想以上に深く浸透し、深刻なことがわかったからだ。しかし、各国政府はこの状況を把握していないか、あるいは国内の力関係で強い措置がとれないことも多い。

 ブッシュ政権はこの状況に不安を持ち、軍事行動も視野にいれている。ベトナム戦争以後、米歴代政権は東南アジアでの米軍のプレゼンスを最小限におさえる傾向があった。この歴代政権の姿勢をブッシュ政権が変えるのか。また、それを変える場合、同政権にどのような戦略があるのかが問題だが、ワシントン・ポストの社説は「同政権がそれを持っているかどうか定かではない」と言う。(注18)

(注16)International Herald Tribune, December 3, 2001
(注17)New York Times, January 8, 2002
(注18)Washington Post, January 27, 2002


2)シンガポール、マレーシアに広がる不安

 シンガポール政府は02年1月初頭、寄港する米艦船や米軍施設、各国大使館などを狙った大規模なテロ計画を摘発したことを明らかにした。イスラム過激派組織ジェマ−・イスラミヤとアル・カイダが計画したもので、同政府は容疑者13人を逮捕した。摘発のきっかけはアフガニスタンで作戦中の米軍がアル・カイダ幹部の自宅で発見した資料。その中にテロ計画を示す文書と攻撃目標を撮影したビデオがあったのだ。

 このビデオに、攻撃の対象としてシンガポールに入港する米軍艦船、市内の米、英、イスラエル、オーストラリアの各大使館、米軍関係者が利用する定期シャトル・バス、軍関係者や家族が集まるレストラン、クラブなど多数の施設がリストアップしてあった。また、ビデオが収録していた英語のナレーションには、狙う施設の位置関係や爆薬を仕掛ける場所のくわしい説明もあった。(注19)

 首謀者の1人はインドネシア人の爆薬専門家、ファテュル・ローマン・アル-ゴジで、当時マニラに潜伏中とわかり、シンガポール政府の連絡を受けたフィリピン治安当局が彼を逮捕した。危険を感じてタイに脱出する直前だったという。アル-ゴジは仲間に爆薬21トンを集めるよう指示、逮捕直前までに4トンをマレーシアに貯蔵、17トンの入手先を決めた他、彼自身もフィリピンで1トンを集めた。この爆薬の量、貯蔵の仕方などからみて、テロ計画はシンガポールだけでなく、マレーシアやフィリピンも対象にした大規模なものだったという見方も出ている。

 計画を立案したジェマ−・イスラミアは95年に結成した組織で、マレーシア、インドネシア、フィリピンのイスラム過激派が参加し、東南アジアにイスラム法に基づく統一国家建設を主張している。ビン・ラディン氏が主張するイスラム統一政府の構想と相通じるもので、アル・カイダとの関係も深い他、フィリピンのアブ・サヤフやマレーシア、インドネシアなどの過激派と協力関係にある疑いも強まっている。(注20)

 シンガポールは95年以来、米国との安保協力を拡大し、南シナ海で米海軍と合同軍事演習を定例化、空母はじめ年間100隻余りの米艦船の入港を認め、東南アジア最大の米海軍の寄港地となった。特に2000年10月、イエメンで米駆逐艦コールの爆破事件が起きて中東の治安が悪化した。このため米軍はより安定したシンガポールを寄港地として重視するようになった。テロ計画はこの米軍の動きを牽制したものとみられている。

 一方、マレーシア政府も01年1月までに、イスラム過激派組織クンプラン・ミリタン・マレーシア(別名、マレーシアン・ムジャヒディン)のメンバーなど47人を逮捕した。同組織はジェマー・イスラムミアの兄弟組織で、イスラム法に基づいた国家建設を主張、爆破や暗殺などのテロ行為を繰り返してきた。マハティール首相は1月11日、日本の中央公論の記者と会見し、「この組織のメンバーのうち約50人がアル・カイダの基地で訓練を受け、現在も関係がある」と語っている。(注21)

 このクンプラン・ミリタン・マレーシアはインドネシアの過激派インドネシア・ムジャヒディン協議会ともつながりがある。同協議会は99年、インドネシアの反体制イスラム主義者アブ・バカル・バーシルが設立したが、彼はその直前まで14年間マレーシアに滞在、イスラム法に基づく国家建設を主張して多くの支持者を集めた。その支持者の多くがクンプラン・ミリタン・マレーシアの活動家になったからだ。マレーシアとシンガポール両政府は、これらの組織が今回のテロ計画でも協力し、アブ・バカルはその背後で動いた重要人物とみている。(注22)

 マレーシアには、米の同時多発テロ事件の実行犯ハリド・アル・ミダルとナワフ・アル・ハズミの2人が事件前に訪れたことや、同事件の共同謀議の容疑で米連邦地裁に起訴されたモロッコ系フランス人、ザカリアス・ムサウイも2000年後半、2度にわたって訪れたことがある。彼らの訪問の目的はまだ解明されていないが、テロ計画に関連した動きだったたことは間違いないようだ。

(注19)CNN インターネット版 2002年1月7日、12日
(注20)Sunday Times (Singapore), January 20, 2002
(注21)ロイター電 2002年1月11日
(注22)Sunday Times (Singapore), January 20, 2002


3)懸念深まるインドネシアの混乱

 インドネシアは98年にスハルト大統領が失脚したあと、地域紛争が一気に拡大した。軍部をバックにしたスハルト体制が崩れ、軍は士気を喪失、中央政府は統率力を失って権力は分散、政治家は利権争いにあけくれている。そんな中、戦闘的なイスラム組織が各地で勢力を拡大している。ウオルフォビッツ国防副長官が警告したように「テロリストが地域のイスラム過激派と手を結び、聖域をつくる」状況が起きているのだ。

 主な紛争地域はスマトラ島北部のナングロアチェ州、スラウエシ島のマルク州、イリアンジャヤ州、西カリマンタン州などで10を越える。紛争の原因も中央政府からの独立要求、イスラム系住民とキリスト教住民の対立などさまざまだ。

 ナングロアチェでは、自由アチェ運動(GAM)が独立を掲げて、軍の施設などを襲撃、01年には1700人余りが死亡、02年になって最初の10日間だけでも70人が犠牲になったという。また、1月22日、軍の攻撃でGAMのアブドラ・シャフェイ司令官と夫人、護衛が射殺されたが、GAM側は政府側が和平交渉を理由に同司令官をおびき出して射殺したと非難、関係をこじらせている。(注23)

 スラウエシ島の港町ポソでは、98年からキリスト教系住民とイスラム教系住民の衝突が始まり、破壊された住宅1万戸余り、住民500人余りが殺された他、8万人が町を捨てて避難した。衝突が続く中で、イスラム系過激派組織ラスカル・ジハドが勢力を拡大し、イスラム系住民を守る軍隊の役割をしている他、住民への食料や医薬品の供給、コーランの学習などをしているという。現地を取材したニューヨーク・タイムズの記者は村の道路を何マイル走っても、焼けて破壊された建物が続くと伝えている。(注24)

 この混乱に乗じて、アル・カイダが浸透しているという情報は多い。01年11月、スペイン政府が米の同時多発テロに関係した容疑でアラブ人など8人を逮捕した。彼らの取調べの結果、アル・カイダのメンバーが上記のポソの町に近いジャングルにキャンプを設営、ムジャヒディンたちを訓練したことや、その数が01年の間だけで数百人に上ることなどが判明、その記録をインドネシア政府に渡したという。

 また、米情報関係者は同時多発テロ直前の8月、アル・カイダがジャカルタの米大使館の詳細な地図を入手したとの情報をキャッチ。同大使館がテロの標的になっている疑いが強まった。アル・カイダは98年、ケニアとタンザニアの米大使館を爆破したが、治安の悪化したインドネシアの状況は当時のケニア、タンザニアによく似ている。その後、これに関連する動きは出ていないが、アル・カイダがすでにSleeper(潜入工作員)を送り込み、機をみて計画を実行するとの見方もある。(注25)

 こうした海外の動きに対し、インドネシアのメガワチ政権は「外国と結んだテロリストが国内で活動しているとの十分な証拠はない」という立場を取り続けている。シンガポール政府が大規模なテロ計画を摘発し、マレーシア政府もこれに関連して過激派のメンバーを逮捕したあとも、インドネシアのウイラユダ外相は「国内のイスラム系団体が関係した証拠はないので、誰も逮捕していない」と語った。(注26)

 しかし、インドネシアの情報機関は必ずしもメガワチ政権と同じ見解ではない。軍情報局長のヘンドロプリヨノ中将は01年12月、ジャカルタのラジオ局のインタービューに答え、「アル・カイダがスラウエシ島に2年前からキャンプを作り、訓練をしていたが、最近活動は縮小している」と述べた。同局長の発言はスペイン政府が入手したアル・カイダの訓練キャンプの情報を事実と確認したものだ。

 このインドネシア国内の見解の分裂は、メガワチ政権が置かれた苦しい立場を反映している。米国はじめシンガポールなど周辺諸国は同政権に対して過激派を厳しく取り締まるよう要求している。しかし、インドネシア国内のイスラム関係者はこうした外国の圧力に反発し、もし同政権が取り締まりに乗り出せば、反米感情に火がつき、蜂の巣をつついたようになる恐れがある。このため、シンガポールとマレーシアがテロ計画の黒幕として追及しているインドネシア・ムジャヒディン協議会のアブ・バクル・バーシルについても、同政権は逮捕に踏み切れないという。

 メガワチ大統領は01年7月就任したが、政権獲得にあたってイスラム諸派の支持を得るため副大統領はじめ枢要な地位にイスラム系指導者を配置した。イスラム過激派をめぐって国内が混乱すれば、これらイスラム系指導者は大統領に背を向けることは明らかで、そうなれば政権は維持できなくなるというのだ。

 同大統領は同時多発テロ事件後、各国の大統領に先駆けて米国を訪問、ブッシュ大統領とテロ反対を表明する共同声明を発表した。しかし、この声明は国内では今もって公表していない。ブッシュ大統領は「テロ戦争の課程で、誰が敵で誰が味方かはっきりする」と発言し、各国の対応をスコア−・カードにつけて評価する姿勢を示した。ジャカルタの米国人アナリストの1人はこのスコア・カードでは「シンガポール、マレーシア、フィリピンはほぼ満点、しかしインドネシアは大きな零点」だと言う。(注27)

 ロシアのプーチン大統領、中国の江沢民主席は反テロの国際協調に参加、ブッシュ政権のスコア−・カードで満点を取りながら、一方でチェチェン、新疆ウイグル自治区紛争への国際的批判を封じ込めようとするしたたかさを見せている。メガワチ大統領もアチェの独立問題で同じような同じ立場だが、プーチン、江沢民両氏のしたたかさに欠けているのだ。

(注23)Jakarta Post, January 12,24. 2002
(注24)New York Times, January 10. 2002
(注25)Washington Post, January 11. 2002
(注26)Straits Times, January 22, 2002
(注27)Sunday Times (Singapore), January 20, 2002


第三章 難航する解決への努力

1) 食い違う双方の認識の違い

 フィリピンのアロヨ大統領は01年10月、香港でフィリピンのテロ対策について講演し、その中でテロを生む温床は「貧困と宗教対立」と述べた。アブ・サヤフなどのテロリストがフィリピンで最も貧しい南部イスラム系住民の不満を背景に、問題をイスラムとキリスト教の間の宗教戦争にしようとしている、というのだ。この解決策として、同大統領は地域の経済発展と宗教間の対話が必要と強調した。

 しかし、これとは違う見解もある。現在フィリピンの人口7,533万人のうち、カトリック教徒は84%、イスラム教徒はわずか4.6%だ。しかし、イスラム教は8世紀にフィリピン南部に伝わり、マニラ周辺まで浸透してかつては多数派だった。それが少数派に転じたのは16世紀にスペインが進出、植民地統治の手段としてカトリック教を布教したからだ。

 そして20世紀半ば、独立したフィリピンは多数派のキリスト教徒がマニラの中央政府を支配し、政府主導の開発計画の名のもとにキリスト教徒を大量にミンダナオなどの南部に送り込んだ。彼らはキリスト教社会の法体系、商慣習、それに資金を持ち込んでビジネスを拡大。この結果、南部のイスラム系住民は土地を失い、イスラム社会は破壊されたというのだ。(注28)

 この認識は現在フィリピンで活動しているイスラム系3組織、モロ民族解放戦線、モロ・イスラム解放戦線、アブ・サヤフの各組織に共通している。そして、この3組織がマニラの政府とキリスト教徒を敵視し、イスラム系住民の独立とイスラム法に基づく社会の復活を唱えるのはこの認識に基づいている。

(注28)非聖戦


2) 解決になるか自治区の設立

 フィリピン政府は3組織が要求している独立とイスラム法導入を一貫して拒否している。しかし、3組織のうち1968年設立のモロ民族解放戦線は76年、リビアやイスラム諸国会議機構の仲介を受け入れてフィリピン政府との和平交渉に応じ、トリポリ合意に調印した。合意の骨子は停戦と自治区の創設だった。民族解放戦線側が独立とイスラム法導入の要求を放棄し、政府提案の自治区建設で妥協したのだ。

 だが、この合意に不満なグループは民族解放戦線から離脱して新たにモロ・イスラム解放戦線を結成、戦闘を続ける。一方、当時のマルコス政権も合意の実行を渋り、結局停戦も自治区の創設も実現しない。ようやく同政権の退陣後、アキノ政権下の87年に自治区創設を認める憲法改正、89年ミンダナオ島など13州の住民投票を経て、90年11月4州でムスリム・ミンダナオ自治区が設立される。そして96年の選挙の結果、モロ民族解放戦線のヌル・ミスアリ議長が初代の州知事に就任した。

 しかし、自治区の運営は順調とは言えなかった。理由は、知事になったミスアリ議長の行政面、特に公金管理の不手際、資金難、行政当局者の腐敗などが多くの軋轢を生んだためだ。このため01年11月の知事選挙では、アロヨ政権はミスアリ議長を見限り、モロ民族解放戦線のパルーク・フッシン医師を支援、当選させた。これに不満なミスアリ議長が腹心50人余りと反乱を起こした。国軍がまもなく鎮圧するが、この事件は自治区が十分な解決策になるか疑問を起こさせた。(注29) 

 もう1つのイスラム系組織モロ・イスラム解放戦線も一時、政府と停戦交渉を開始したが、01年秋から政府に背を向けた過激な活動が目立つようになった。南部で人質を取ったとの情報や、マニラに潜入したシンガポールのテロ計画の主要容疑者ファチュル・ローマン・アル-ゴジと連絡していたことなどがわかったからだ。アブ・サヤフを含め、これらイスラム系3組織の過激な動きは最近の国際的なイスラム過激派の動きに歩調が合っており、アル・カイダと連携している疑いが強い。

(注29)Inquirer (Manila), January 5, 2002


3)解決には程遠いアチェの独立問題

 アチェにはミンダナオなどとは違う性格の問題がある。アチェのあるスマトラ島にも7世紀にイスラム教が伝わり、アチェのスルタンは対岸のマレー半島マラッカのスルタンとともに海峡経由の交易を支配し、大きな力を持っていた。17世紀、オランダとイギリスが東インド会社を設立して一帯の支配を争うと、アチェにもその影響が波及、両国軍がしばしば侵入したが、根強く抵抗。その抵抗は日本軍が進攻してオランダの植民地支配が終わる1942年まで続いた。この事実をもとに、アチェの反政府勢力はオランダの統治下に入った事実はないと主張、独立を要求する根拠としている。

 しかし、インドネシアはオランダの植民地全域を継承する権利を主張してアチェ地方も領土に含め、50年にはその領土で国連に加盟した。アチェ側の不満の1つはこの併合に根拠がないこと、もう1つの不満はインドネシア政府がイスラム法を無視していることだった。このため50年代、ジャワ島はじめインドネシア各地でイスラム法に基づく国家建設の要求が高まって反乱に発展すると、アチェは援軍を送って支援した。同時に地元では独立のためのゲリラ闘争を続け、53年には独立宣言を出した。

 インドネシア政府は1959年、対策の1つとしてアチェ地方を特別州に指定、宗教、教育、文化活動面で大幅な自由を与えるが、独立運動は消滅しない。76年には自由アチェ運動(Free Aceh Movement, GAM)が結成されて武力闘争を開始、89年にはアチェ・スマトラ民族解放戦線も組織されて現在も戦闘を続けている。

 これに対して90年、スハルト政権はアチェを特別戦闘地域 (DOM) に指定、事実上の軍政を実施して、軍の力で独立運動を押さえ込む政策を推進した。同じように独立運動が続いた東チモールに対しても、同政権は軍事力で押さえ込む政策をとり、軍の過酷な行動が人権侵害として国際的な非難をあびることになる。

 スハルト政権がこうした人権問題での国際的な非難と腐敗を追求されて崩壊したあと、ワヒド大統領はアチェに対して一転して宥和策を取った。そして、特別戦闘地域の指定を解除し、自由アチェ運動と暫定的な停戦協定に合意する。しかし、この停戦も長く続かず、再び戦闘と紛争が激化、01年7月に就任したメガワチ大統領は02年早々、特別戦闘地域指定を復活させる決定をした。その直後、軍が自由アチェ運動のアブドラ・シャフェイ司令官と夫人、護衛を射殺し、関係が再び悪化している。

 インドネシアでは、こうした紛争を通じてイスラム法に基づく国家建設の要求が次第に広がりをみせている点も見過ごせない。アチェの独立問題、スラウエシ島ポソのイスラム系住民とキリスト教系住民の紛争は本来性格の違う問題だが、紛争の課程でイスラム教徒側はイスラム法に基づく国家建設という共通の主張を持つことになった。この要求はアル・カイダも主張しており、今の状況はこの面でもアル・カイダに付け込む隙を与えている。


・むすび

 テロ対策は、テロを未然に阻止するための短期的対応とテロの根源を無くすための長期的対応の2つが必要だ。そして、東南アジアではこの2つの対応を緊急に必要としている。短期的対応の必要は、シンガポールのテロ計画摘発やジャカルタ米大使館の地図流出の例で見られるようにテロ計画が現在も進行中の可能性があり、これをまず未然に阻止する必要がある。それには情報を持つブッシュ政権と地域の政府の協力が不可欠になる。また、一般市民も各種検査の強化、情報の管理、制限などで協力しなければならないだろう。  長期的対応では、アロヨ大統領が提言したように貧困の撲滅と宗教間の対話が必要だろう。しかし、従来のような開発援助でよいのか再考が必要だ。ミンダナオの開発が北部のキリスト教徒の進出を許し、イスラム系住民の土地を奪ったとの不満を無視すべきではない。最大のODA供与国の日本もこの点注意しなければならない。この不満がある限り、宗教間の対話は難しいだろう。外国からの開発援助もイスラム系住民に公平と判断できる形で実施する必要がある。  また、イスラム系住民の独立要求にも耳を傾ける必要がある。インドネシア、フィリピンとも独立を認めないが、自治区の設置には応じている。この試みをさらに追求するべきで、可能なら国連など国際機関のもとで将来構想を検討することも必要だろう。  もう1つの問題はイスラム法に基づく国家建設の要求だ。同法の実施は部分的にはイスラム教ワハーブ派のサウジアラビアやシーア派のイラン、最近問題になったアフガニスタンのタリバン政権など先例がないわけではない。しかし、東南アジアではこの支持者はまだ少数で、その主張が実現する可能性はない。この問題はむしろイスラム教内部の宗派間の対話によって解決すべきだろう。この問題に関連して、イランの元閣僚アブドルハリム・ソロー博士は自らの経験をふまえ「イスラム法国家は現在のグローバル経済、情報化社会にそぐわない」と発言している。こうした意見にもっと耳を傾けるべきだろう。(注30)  東南アジアの安定は日本にとって死活的な影響がある。特にマラッカ海峡は日本経済の大動脈である。ブッシュ政権は周辺国と取り決めをして米船舶の護衛を始めたが、日本も関係国と協議するなど何らかの対応が必要だろう。(了)

(注30)The Straits Times, January 21, 2002


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