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米大統領選、ケリー候補の綱渡り(1)
持田直武 国際ニュース分析

2004年3月22日 持田直武

民主党大統領候補ケリー上院議員は、ベトナム戦争の英雄だったが、帰国すると勲章を捨て、反戦運動のリーダーになった。ウオーターゲート事件で明らかになった録音テープによれば、ニクソン大統領は当時「功名心のため混乱を探す野心家」と警戒し、大統領の側近は「やっかいなデマゴーグになる前に潰す計画」をねった。それから30年、ケリーは潰れず、野心達成の最後の決戦に挑む。


・なぜ、ベトナム戦争の勲章を捨てたのか

 ケリー候補は1968年から2回にわたってベトナム戦争に海軍士官として参加した。1回目は、大型フリゲート艦に乗り、ベトナム沿岸を警備するのが任務。2回目は小型掃海艇の艇長として、メコンデルタの川をパトロール、共産勢力の南下を阻止するのが任務だった。フリゲート艦勤務は退屈だが、安全であり、希望者も多かった。しかし、ケリーは2回目の勤務であえて危険な後者を選択し、6人乗り小型掃海艇に乗り込んでメコンデルタの戦場に飛び込んだ。

 南ベトナム派遣軍のズムワルト海軍司令官の回顧録によれば、このパトロール作戦の死傷率は75%だった。ケリーは68年12月から翌年4月まで同作戦に参加し、3回負傷する。同時に、その間の戦果で、同司令官から直接勲章を受けるなど合わせて5つの勲章を授与された。それほど、彼の戦いぶりは際立っていた。同僚の艇長の多くは水上から応戦するだけのことが多かったが、ケリーは場合によっては上陸して相手を追跡、とどめを刺したのだという。

 そのケリーが任務を終えて帰国すると、一転して反戦運動に飛び込む。71年4月23日のワシントン反戦デモでは、復員軍人グループの先頭に立って、議事堂に押しかけ、勲章をゴミ箱に投げ捨てた。その前日、彼は上院外交委員会の公聴会に証人として出席、議員たちに向かって「この戦争は間違っている。あなた方はこの戦争を続けるために若者に死を求めるのか」と詰め寄り、報道陣の注目を集めていた。カメラが彼の動きを追い、数百人の復員軍人と一緒に勲章を投げ捨てる姿を捉えた。


・ニクソン大統領が警戒心を募らせる

 ケリーの行動はホワイトハウスでテレビを見ていたニクソン大統領の目にとまる。ウオーターゲート事件で明らかになった秘密録音テープによれば、ケリーの上院証言の翌日、同大統領は2人の補佐官ホールドマン、キッシンジャーと次のような会話を交わした。

大統領「公聴会のスターはケリーだった」
ホールドマン「彼はケネディ・タイプの男だ。ルックスも話し方もケネディに似ている」
大統領「彼の海軍での任務は何か」
ホールドマン「掃海艇乗り組みの海軍中尉。ベトナムでは母親が抱いていた子どもまで撃ったという」
大統領「ちょっと待て」、キッシンジャーに向かって「海軍はそんなことはしないだろう」
キッシンジャー「海軍はそんなことはしない」
大統領、ホールドマンに向かって「海軍は陸上で戦闘はしないのではないか」

 ニクソン大統領は、ベトナムのゲリラ戦では、海軍が戦闘に加わることはないと思っていた。従って、ケリーが5つも勲章を授与された理由が理解できなかったようだ。この会話の数日後、同大統領はコルソン大統領顧問からの電話を受ける。ニクソンがケリーについての調査を命じ、コルソンがその結果を報告してきたのだ。

コルソン「ケリーという男はいかさま師だ」
大統領「いかさま?」
コルソン「デモの仲間は議会前の広場で寝ているのに、彼は高級住宅地ジョージタウンの社交家の邸宅に泊まっている」
コルソン「ベトナムにも4ヶ月間行っただけだ。政治的功名心を満足させるため混乱を探している野心家だ」
大統領「そうか」
コルソン「ベトナムではタカ派、帰国してハト派になった。チャンスが多いと思うほうに行くのだ」

 コルソンの報告は、ケリーのベトナム勤務の1回目を見落とし、2回目だけを調べたものだった。それはともかく、ニクソン大統領をはじめホワイトハウスの側近たちはこの時から、反戦運動の煽動家としてケリーに対する警戒心を強める。その後明らかになったコルソンのメモによれば、彼は「ケリーが、消費者運動のラルフ・ネーダーのようなやっかいなデマゴーグになる前に潰す計画」を推進することになった。


・有権者はベトナムの英雄に冷たかった

 ケリーはエール大学入学を控えた1962年夏、ケネディ大統領とロードアイランドの別荘で会った。ケリーが、大統領の末弟エドワード・ケネディの上院議員選挙を手伝い、ジャックリーヌ夫人の妹ジャネットと知り合ったのが幸いした。彼女の招待で、ケネディ一家と一緒に沿岸警備隊の帆船に乗り、アメリカ・カップのヨットレースを見に行った。この時、ケリーは18歳、大統領と会話をすることができて、すっかり心酔し、ケネディのような政治家を目指す決心をする。

 ケリーがベトナムでメコンデルタの掃海艇勤務を希望したのも、ケネディにあやかろうとしたからだった。第二次世界大戦時、ケネディは魚雷艇の艇長として太平洋で日本海軍と戦い、負傷して勲章を授与された英雄である。選挙では、これが有権者を引きつける強力な武器だった。ケリーもベトナムから帰還した翌年、1970年の下院議員選挙にケネディと同じマサチューセッツ州の選挙区から立候補した。そして、3ヶ月運動するが、民主党の党候補の地位も得られず断念する。

 有権者は第二次世界大戦の英雄ケネディを熱狂的に支持したが、ベトナム戦争の英雄ケリーには冷たかった。マサチューセッツ州議会が「宣戦布告をしない戦争には従軍しなくてもよい」という州法を可決、ベトナム戦争への従軍拒否を合法化した頃である。ケリーもこの雰囲気を感知し、立候補のスローガンにはベトナム戦争批判を入れた。だが、彼はその直前までベトナムで歴戦の海軍士官だったのであり、この軍歴はマイナスにはなっても、決してプラスにならないことを痛感する。


・反戦運動は選挙のためのパフォーマンスか

 この苦い経験のあと、ケリーは反戦運動に本格的に参加する。たまたま妹のマーガレットが反戦団体のために軽飛行機のパイロットを探していた。ロバート・ケネディのスピーチ・ライターだったワリンスキーがこの軽飛行機で各地をまわり、デモを組織するのだという。ケリーは軽飛行機でサンフランシスコの金門橋の下をくぐった経験もある操縦の名手だった。パイロットを引き受け、ワリンスキーと各地を廻りながら反戦運動の組織に深入りした。

 当時の反戦運動参加者は、学生が圧倒的に多く、長い髪、汚れた服装で、浮浪者(BUM)とか、ヒッピーと蔑まれていた。復員軍人の反戦団体もあったが、彼らは傍系で、組織もまとまりがなかった。ケリーはこれをまとめ、やがて復員軍人グループのリーダー、兼スポークスマンになる。学生たちとは違い、服装も身ぎれいだった。議会公聴会での証言、議事堂での勲章の投げ捨てで、ケリーの名前は全米に浸透していった。

 彼を取り巻く報道陣が次第に多くなるが、中にはよく思わないグループもあった。仲間がケリーの自宅に電話すると、メイドらしき女性が出ることも反発を招いた。彼は議会証言のあと、まもなく運動から身を引くが、辞めさせられたのだという見方もある。ケリー自身は72年の選挙に再度下院議員を目指して立候補するためだったと説明している。ケリーにとって反戦運動はその準備だったことは間違いない。

 何年かたって、ケリーは勲章を投げ捨てたことを否定するようになる。勲章は投げたが、それは知り合いの復員軍人2人から「捨てる」のを依頼された勲章だった。自分の勲章は今も自宅の金庫に保管してあるという。これが事実なら、ニクソン大統領側近のコルソンがケリーを「いかさま師」と決めつけたのも、一理あることになる。

 (Boston Globe, New York Times, Washington Post, Timeその他を参考にした)

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