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米大統領選、ケリー候補の綱渡り(2)
持田直武 国際ニュース分析

2004年3月29日 持田直武

FBIは1971年からしばらくの間、ケリー候補をきびしく監視した。彼が関係する退役軍人の反戦団体が、クーデターでニクソン政権を倒し、ベトナム和平推進に動くという情報があったからだ。同団体の代表者会議で、強硬派がその提案をした頃、ケリーはすでに運動を辞めていたとこれまで説明していた。しかし、最近明らかになった記録によれば、実はその会議に出席していたことがわかる。


・復員軍人の強硬派が政府指導者の暗殺を提案

 ケリー候補がベトナム反戦運動に手を染めるのは1969年10月、まだ現役の海軍士官の時だった。故ロバート・ケネディのスピーチ・ライターだったワリンスキーのパイロット役を引き受け、軽飛行機でニューヨーク周辺の反戦デモの会場を廻ったのがきっかけだ。翌年1月、海軍を除隊し、民主党の下院議員候補指名を目指して3ヶ月間運動するが、成果なく撤退。このあと、反戦運動に本格的に加わった。パイロットの時知り合ったベトナム復員軍人反戦の会(VVAW)が足がかりになった。

 それから1年後、ケリーは反戦団体のリーダーの1人として議会で証言し、ベトナム戦争の勲章をゴミ箱に投げ捨てる。FBIの監視が強まるのは、この頃からだった。ニクソン大統領の側近コルソンが大統領の意を受け、ケリーが「やっかいなデマゴーグになる前に潰す」計画を実行しはじめたのだ。その過程で、FBIが特に関心を持ったのは、復員軍人の会がカンザス・シティで71年11月13日から4日間にわたって開いた代表者会議である。

 会議の内容は今もくわしくわかっていないが、同会議に参加したフロリダ州代表のスコット・カミルは先週CNNのインタビューに答え、「政府指導者を暗殺する話をした」と述べた。彼が議題の1つとして提案したという。しかし、彼は「話をしたが、いわばジョークのようなもので、当局も訴追しなかった。彼らも真剣に考えなかったのだ」とその意義を否定した。しかし、歴史家のジェラルド・ニコシア氏は同じCNNのインタビューで、「ニクソン政権は、復員軍人がホワイトハウスを襲撃し、大統領を殺害して政権を奪う計画をたてていると真剣に受け取った」と語っている。


・ケリーは強硬派と対立して辞任に追い込まれる

 ケリーは、この代表者会議に「出席していなかった」とこれまで説明してきた。この会議の数ヶ月前、反戦運動から手を引いたという。しかし、ニコシア氏が情報公開法に基づいて1999年に入手したFBIの記録によれば、ケリーはこの会議の議長だった。ニコシア氏は先週この資料をCNNなど米主要メディアに提供した。その中には、会議終了後の11月19日、FBIが打電した「ケリーが強硬派との対立に破れて復員軍人の会を脱退した」という至急報の電報が含まれている。これが事実なら、ケリーは会議に出席し、その席で辞任したことになる。

 このFBIの記録によれば、代表者会議は共同議長アル・ハバードやカミルらの強硬派が「ベトナム和平のため直接行動をとるべきだ」と主張して、穏健派のケリーと対立。ケリーは、ハバードがベトナム戦争に従軍したかどうか疑わしいなどと主張して対抗したが、敗れたという。そして、ケリーは彼を支持した穏健派グループの3人とともに脱退した。ハバードはこのあと、代表者会議の決定に基づいてパリに行き、北ベトナム政府の代表と会うことになる。

 一方、代表者会議が「政府指導者を暗殺する話合いをした」ことについて、カミルがCNNに説明したように、当局はたしかにこの件では訴追しなかった。しかし、この提案をしたカミルは72年8月マイアミで開催された共和党全国大会を襲撃する計画をたてたとして、仲間の反戦復員軍人7人とともに逮捕され、裁判にかけられた。全員無罪となったが、同大会は、再選を目指すニクソン大統領を共和党の候補として指名するためのもので、同大統領が出席する。ニクソン陣営は、大会を襲撃することは同大統領を襲うのと同じとして追及したが、証拠がなかった。


・ニクソン陣営の対抗策がウオーターゲート事件を生む

 米国は当時、ベトナム反戦運動が各地に拡大、次第に法を無視して過激化した。これに対し、ニクソン政権も超法規的措置を駆使して、これを押さえ込もうとする。ウオーターゲート事件の調査の過程で明らかになったところによれば、同政権は69年の発足以来、「国家の安全を脅かす敵」として政治家、実業家、ジャーナリスト、労組指導者など8,000人余り、団体3,000余りをリストアップ、盗聴や、手紙の無断開封、嫌がらせの税務調査などを続けた。この工作の責任者がホールドマン首席補佐官、コルソン顧問は実働部隊のキャップだった。

 ケリーが所属した反戦復員軍人の会もこの工作対象の例外ではなかった。前記のFBI記録によれば、担当官がケリーを24時間尾行、行く先々から、「150人から200人の聴衆を前に反戦演説をした」などと逐一報告していた。また、スパイを組織内に送り込んだほか、事務所の電話を盗聴し、手紙類を盗み読みした。同じような工作は、民主党系のシンクタンク、ブルッキングス研究所や、国防総省顧問エルズバーグ博士に対しても行われた。しかし、エルズバーグ博士がベトナム戦争の記録であるペンタゴン・ペイパーズをニューヨーク・タイムズに漏らすのを阻めなかった。

 72年6月17日に起きたウオーターゲート事件は、こうしたニクソン陣営の超法規的工作活動の一つだった。過激な反戦グループが民主党の反戦候補マクガバン上院議員と手を結ぶことを警戒し、民主党本部に盗聴器を仕掛けようとした。しかし、浸入した工作員5人が捕まり、計画は失敗するが、警戒心が消えたわけではない。前記のニコシア氏によれば、ニクソン政権幹部は反戦復員軍人が戦闘経験を積み、組織的行動に習熟しているとして、きわめて深刻に受けとめていたという。


・ケリーの下院議員選挙落選もニクソン陣営の謀略か

 ケリーは復員軍人の会を辞めたあと、72年11月の下院議員選挙に立候補する。彼はすでに反戦運動で顔が売れ、予備選挙も勝って民主党の党候補に楽々と指名された。前回、70年に立候補を試み、相手にされなかった時とは違っていた。世論調査でも、ケリーが共和党候補を押さえて当選するとの見通しだったが、実際には落選した。彼は、この背後にニクソン側近のコルソンの差し金があったと今も疑っている。

 一方、コルソンは最近ボストン・グローブ紙のインタビューで、ケリーの反戦運動に干渉したことを認めているが、選挙への介入は否定した。しかし、ケリーが疑うのも理由がないわけではない。選挙は、民主党からケリー、共和党からクローニン、それに共和党員だが、無所属で立候補したダーキンの3人が争った。共和党票は2つに割れ、民主党ケリーの有利は明白だった。世論調査でも、一時ケリーは2位のクローニンを26%も引き離していた。

 ところが、投票日の4日前、無所属のダーキンが突然立候補を辞退、共和党候補クローニンの支持にまわった。この結果、ケリーは9%差でクローニンに完敗した。選挙中、政府関係者が来て動き廻っていたとの情報もあり、ダーキン辞退の背後にニクソン陣営の画策があると疑うのももっともだった。一方、同時に行われた大統領選挙では、ニクソン大統領が民主党のマクガバン候補を大差で下し、再選を果たす。しかし、すぐにウオーターゲート事件が拡大して、大統領を辞任。一方、コルソンも同事件のもみ消しに加わったとして懲役刑を言い渡された。

 米主要メディアはウオーターゲート事件報道に大きなスペースを割いたが、カミルら復員軍人の民主党全国大会襲撃事件の裁判には関心を払わなかった。

  (CNN, Boston Globe, Washington Post, New York Times, その他を参考にした)

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