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米大統領選、ケリー候補の綱渡り(3)
持田直武 国際ニュース分析

2004年4月5日 持田直武

ケリー上院議員の実績の1つは、ベトナム戦後処理の難問、行方不明米兵の問題を処理したことだ。彼は上院特別調査委員長として、ベトナムに米兵の生存者なしとの結論を出した。だが、米兵たちの家族は、かつての反戦運動のリーダーが出したこの結論に納得しない。この問題に関連して、前号で紹介した歴史家ニコシア氏のケリーに関する膨大なFBI資料が最近になって盗まれた。問題はまだ燻っている。


・ベトナム戦の後遺症、行方不明米兵2,200人余り

 ニクソン政権は1973年、北ベトナム政府と和平協定を結んで米軍を引き揚げ、捕虜を交換した。だが、その一方で戦争中行方不明になったままの兵士が2,200人余りもいた。そして、北ベトナムがその多くを捕虜としてその後も拘束し続けているなどの噂が絶えなかった。米主要メディアがジャングルの中で暮らす長髪の米兵3人の写真を掲載し、世論が沸いたこともあった。あとで、この写真は贋物とわかるが、米国内には北ベトナムが事実を隠しているとの疑いは消えなかった。

 ブッシュ(父)政権時代の91年、共和党のスミス上院議員が上院特別調査委員会の設置を提案したのは、この疑問を解明するのが目的だった。委員会の委員長には、この時上院議員2期目のケリーの名前があがる。ベトナム戦争への従軍と反戦運動の双方にかかわった経歴が買われたのだ。共和党からはマケイン上院議員が上席委員として参加した。彼も海軍士官出身、ベトナム戦争では海軍航空隊のパイロットとして北ベトナム爆撃に参加、撃墜されて捕虜になり、5年間の抑留生活を経験した。

 その頃、ベトナム戦争肯定派は、ケリーを変節漢の意味を込めて「カメレオン」と呼んでいた。これに対し、マケイン議員は5年間の抑留中にも節を曲げず、釈放の時も仲間を先に出獄させ、自分は最後まで残ったとして一目置かれていた。2人はこうした立場の違いを意識して、お互い敬遠しあい、議会内の廊下でも眼を会わせないという評判だった。ところが、委員会が始まると、2人は次第に協調し、ベトナム政府の協力も取り付けて調査を進める。米兵の家族やロビイストたちはこの2人の親ベトナム姿勢に反発し、ケリーを殺人者、マケインを反逆者と呼んで非難した。


・ベトナム国交正常化の陰で利権獲得の疑惑

 ケリーの特別調査委員会は93年1月、クリントン政権誕生の8日前、585ページに上る膨大な報告書を公表した。そして、「米軍が撤退した時、行方不明の米兵が北ベトナム側に残っていた可能性はある。しかし、現在も生存し、ベトナム政府によって抑留されている証拠はない」という結論を出した。家族の会や反ベトナム・ロビーは不満だった。映画「キリング・フィールド」の原作を書いた作家、シドニー・シャンバーグ氏は新聞の連載コラムで、「和平後も米兵が北ベトナムに残ったのなら、その後どうなったのか、死んだとすれば、何時、どこで、また遺品は? 報告書はこうしたことにまったく触れていない」と批判した。

 だが、この特別調査委員会の報告がベトナム戦争以来の両国の溝を埋めたことは間違いない。その後、クリントン政権は対ベトナム経済制裁を徐々に解除し、95年7月には国交正常化に踏み切った。サイゴンが陥落し、米大使館員全員撤退の屈辱を味わってから丁度20年後だった。ケリーと同じマサチューセッツ州選出のエドワード・ケネディ上院議員は「両国の関係正常化はケリーとマケイン両上院議員の努力の成果」と高く評価する。しかし、その一方にはケリーの努力について別の見方もあった。

 ケリーが特別調査委員会の報告を公表する直前の92年12月、ベトナム政府がマサチューセッツ州の建設会社コライアーズ・インターナショナルに巨大プロジェクト開発の独占権を与えると発表したのだ。同社のCEOは、ケリーの従兄弟、スチュアート・フォーブス氏。ボストンに拠点を構え、ケリーの強力な支援者として知られている。同社が受注した額は、ベトナム南部ブンタオの港湾建設や道路整備、政府機関の施設建設など9億ドル余りだった。行方不明米兵の家族や反ベトナム・ロビーは、ケリーが関係改善と引き換えに利権を得たとして反発した。


・96年選挙、ケリーの虐殺疑惑が浮上

 ケリーは96年、上院議員3期目の選挙を迎えた。選挙区のマサチューセッツは伝統的にリベラル色が強く、過去2回の選挙では共和党候補が小物だったこともあって楽勝した。しかし、96年は別だった。共和党の現職知事、ウイリアム・ウエルドが任期途中で立候補、ケリーと対決したのだ。ウエルドはケリー同様、早くから大統領への野心を隠さず、前回94年の知事選挙で71%という圧倒的な得票で民主党の対立候補を破った。96年選挙は、この両者による大統領選挙の前哨戦の様相だった。

 その投票日の2週間前、雑誌ニューヨーカーがケリーのベトナム戦争時代の虐殺疑惑を報道した。事件は1969年2月28日、ケリー海軍中尉指揮の小型掃海艇がメコンデルタの川をパトロールしている時に起きた。軍の記録によれば、敵の兵士が陸上からロケット砲で掃海艇を攻撃。これに対して、ケリーは反撃しながら上陸、逃げ出した敵兵1人を追跡して、射殺した。敵兵のロケット・ランチャーには砲弾が装てんしてあったが、発射しなかったという。ケリーはこの勇敢な行為で勲章を授与された。

 ところが、ニューヨーカー誌によれば、状況はかなり違う。ケリーの掃海艇の射撃手ベロドーが、同誌の取材に対し「ケリーが射殺した敵兵は掃海艇の弾を受けてすでに負傷していた」と語ったのだ。事実なら、ケリーは戦闘能力を失った敵兵にとどめを刺したことになり、明らかに軍規違反。また、負傷兵は敵でも助けなければならないという国際条約に違反する戦争犯罪になりかねない。だが、ベロドーはその後、メディアに虐殺ではないかと追及されて発言を修正、敵兵は負傷したが、「ケリーの行為はとどめを刺すというものではなかった」と説明し直した。


・ベトナム反戦運動のFBI記録が盗まれる

 上院議員選挙は、ウエルド知事が追い上げ、ケリーは苦戦する。そこで、先輩のケネディ上院議員が知恵を絞り、新たな公約として、子どもを対象とする医療保険制度を急遽打ち出した。財源は、憎まれ役のタバコ税をさらに増税して充てるという。マサチューセッツ州では、ウエルド知事が反対して実現せず、州民に不満が出ていた問題だった。この公約の効果もあり、ケリーはベトナム虐殺疑惑をかわして当選した。

 ケリーにとってベトナム戦争は選挙ごとに亡霊のように現れた。彼が念願の大統領に挑戦する今回も例外ではないようだ。前号で取り上げた歴史家、ニコシアス氏収集のケリーに関する膨大な反戦運動の記録が盗まれたことがそれを暗示している。CNNが伝えた警察の記録によれば、盗まれたのは3月25日午後、同氏が情報公開法に基づいて取得したFBIの記録14箱のうち3箱分、それにホルダーで保存していた文書類など、これまでに収集した記録の20%が無くなったという。

 犯人は記録だけを選んで盗み、一緒に置いてあったカメラなど貴重品には手を付けていない。また、窓ガラスなどを破った形跡もなく、ドアの鍵をあけて侵入したとしか考えられないという。記録には、ケリーの反戦運動とともに、当時のニクソン・ホワイト・ハウスの動きも含まれている。同氏は盗難の数日前、記録の一部を主要メディアに提供したほか、CNNテレビのインタビューに答えて当時の状況について語っていた。同氏は盗難のあと、CNNに対して「双方が盗む動機を持っているはずだ」と語っている。

 (Boston Globe, New York Times, Washington Post, Time, CNN,その他を参照した)


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