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記者時代の取材秘話2
金大中氏の政治裁判の頃
持田直武 国際ニュース分析


金大中氏自宅にて、取材する著者(左側)1975年10月

当時金大中氏はは自宅軟禁中。24時間情報機関員が自宅を監視し、外出には機関員が尾行、来客はほとんどなしという状態で、時折外国報道陣が訪問するだけだった。

オリジナル記事 2002年7月23日掲載



 1975年12月12日金曜日の午後、日本大使館で大使とソウル駐在の新聞、テレビ11社の特派員との懇談会があり、私も出席した。翌日は土曜日だが、ソウル地裁は金大中氏の選挙違反事件の判決公判を開く。当然のことだが、懇談会の話題は裁判一色になった。特に、判決で同氏が有罪になった場合、日本政府はどう対応をするかに特派員の質問は集中した。

 金大中氏が東京のホテルからソウルに拉致された、1973年8月のいわゆる金大中氏拉致事件から2年余りたった頃だ。日本政府は同氏を東京に戻し、拉致以前の状態に「原状回復」することで最終決着をはかりたかった。韓国政府当局も判決の少し前、訪韓した宮沢外相(当時)に対し、「裁判で身がきれいになれば、同氏は国外への出国も含めて自由」との立場を表明した。同氏が無罪になれば、日本の主張で最終決着ということになる。

 しかし、無罪になることはあり得ないというのが、われわれ特派員の判断だった。金大中氏の罪状は、67年と71年の大統領選挙や国会議員選挙など4つの選挙に関連して合計32項目、検察側は懲役5年を求刑している。韓国の有識者も、この求刑の重さ、それに当時の学生の反政府運動など政情不安、これらの状況からみて無罪はありえないとの見方をしていた。

 有罪になれば、金大中氏は出国できず、拉致事件の原状回復は不可能だ。それに対して、日本政府はどのような対応をするのか。ソウル駐在特派員が日本政府の代表、韓国駐在大使に答えを迫るのは当然だった。



・大使の答えは「俺はゴルフに行く」

 だが、大使はパイプをくゆらしながら特派員たちの質問を巧みにかわし、なかなか核心に触れない。特派員側はそれを何とか突き崩そうと、遠慮のない質問が多くなる。大使は外務省の局長からインドネシア大使を経て韓国駐在大使に就任したベテラン外交官。私は大使がインドネシア在勤中に一度ジャカルタの大使公邸で会ったことがあった。

 朝早く、スカルノ大統領失脚という情報を確認するため大使公邸を訪ねた。大使は若い大使館員たちを庭に集め、日本から来たプロゴルファ−の指導でゴルフの練習中だった。私がスカルノ失脚の真偽を確かめると、「そんな筈はない」と軽くいなされた。この時、私はまったくの初対面。よく考えれば、大使がそんな相手にスカルノ失脚のような重大情報を漏らすはずはないのだった。

 しかし、韓国大使館の懇談会出席者は日本の新聞、テレビを代表する特派員、大使と初対面という関係ではない。また当時、このグループが発信するソウル発のニュースが日本の韓国報道をリード、世論形成に大きな役割を果たしていた。その焦点の1つが金大中氏の動静だった。それを考えれば、大使は積極的に日本の立場を説明すべきではないかというのが、その場の特派員側の雰囲気だった。

 懇談会は次第に熱気を帯び、特派員側は判決の日に大使館がどのような勤務態勢を取るのかを問題にした。実は、米大使館の担当官は金大中氏の過去何回かの公判に必ず法廷に来て傍聴していた。しかし、日本大使館の担当官が傍聴した形跡はなかったからだ。こうした日本大使館の姿勢が、日本政府は金大中氏事件の真相究明に及び腰という批判を生む原因にもなっていた。

 大使は懇談会の最後まで、日本政府の対応に触れるような言葉は慎重に避け通した。そして、いささかむっとしたような顔で、「俺はあすゴルフに行く」と言い残して部屋をあとにした。私は支局に帰り、翌日の金大中裁判のボイスレポートを送ったが、その最後に日本大使館の幹部は「あすはゴルフに行く」と言っていると付け加えた。


・外務省から厳しい抗議

 私のレポートは午後3時のラジオのニュースで放送された。しばらくして、報道局外信部の担当部長から電話があり、外務省がNHKに放送内容の確認を求めてきたという。私は担当部長に対し、大使懇談会の最後に大使が「あすはゴルフに行く」と発言したことを説明。担当部長は私の説明をもとに、放送内容は間違いないと外務省に回答した。しかし、問題はそれではおさまらなかった。

 外信部を経由して私に伝えられた外務省の主張は、この報道は2つの点で承服できないという。1つは、大使の発言は懇談会でなされたもので、懇談会の内容はオフレコ、つまり報道しないという取り決めがあること。もう1つは、大使は部屋を出る時、土曜日の個人的な予定を口にしたもので、このような個人の事柄を報道すべきではない、というのだった。

 だが、私にも言い分があった。懇談会、または懇談は、日本の政治家や官庁幹部がよく使う会見の形式だ。記者会見とは違い、たしかに懇談での発言は報道を制限される。発言者の名前を出さず、だれが発言したのか特定できないように報道しなければならないのだ。例えば、内閣官房長官の場合、記者会見の発言は「官房長官はこう述べた」と報道できる。しかし、懇談の場の発言は、官房長官の名前は使えなくなり、「政府首脳は」などとぼかさなければならない。

 私も韓国駐在の日本大使の懇談会が同じような約束事に基づいて行なわれていることは知っていた。そこで、大使が発言したという表現は避け、「大使館の幹部はあすゴルフに行くと言っている」とぼかしたのだ。しかし、外務省側は幹部と言えば、大使を連想するとして納得しなかった。

 また、ゴルフについても主張は対立した。判決の日は土曜日で、当時は日本の官庁や企業は午前中で仕事は終わった。従って午後の勤務終了後、ゴルフに行くのは個人の自由である。これは外務省の主張のとおりだ。しかし、当日は金大中氏の判決の日であり、判決如何が日本の政策に影響する。そんな日に日本の大使がゴルフに行くのは不適切で、これは視聴者に伝えるべきだというのが私の主張だった。


・取材に支障、和解へ

 東京では外務省とNHK、ソウルでは大使と私のギスギスした状態は続いた。そんな時、親しい新聞社の特派員が訪ねて来て、私を特派員の会から除名する動きがあると教えてくれた。ソウル駐在特派員は全員で特派員会を作り、この会が大使と懇談会を開くことになっていた。会から除名されれば、今後大使懇談会はじめ、特派員会が関係する行事に出席できなくなる。これは、私にとって手痛いことだった。

 日本大使館はわれわれ報道関係者にとって情報の宝庫だ。大使は金大中氏の動静など微妙な問題では慎重だが、情報は持っている。大使館員も韓国政府当局者と接触し、情報を集めている。犬も歩けば棒にあたるで、私でも大使館に出入りすれば何か得ることがあった。しかし、それには大使館員と個人的に親しくなり、信頼される関係になることが必要だ。

 私は意を決して大使に会いに行った。しばらく話したあとで、大使が「そうか、そうか、分かればいいよ」と言って、低く「ハ、ハ、ハ、ハ」と笑ったのをおぼえている。私が何を言ったか、詳しい記憶はないが、大使の個人的発言を取り上げ、迷惑をかけた点をわびたことは確かだった。


・ゴルフの効用も知る

 それからしばらくして、韓国政府の元高官に誘われてゴルフに行った。プレーの途中で、携帯無線を持った屈強な男たちが来て、後発のグループが急いでいるので、コースをあけてくれと言う。何か意味がありそうなので脇によけていると、 ティー・グラウンドに朴正熙大統領が現われた。

 同大統領は半袖の省エネルックという飾り気のない服装で、ティーショットを打つと、早足でコースの奥に消えた。3人の同行プレヤ−も無言で大統領のあとを追う。実は、その日はウイークデー。しかし、休日である、ないにかかわらず、大統領とゴルフをすれば仕事の面で何か得ることがあるだろう。大使のゴルフも個人的なことと一概に片付けられないことも確かだった。  

(持田直武)


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