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記者時代の取材秘話4
金日成主席の謝罪
持田直武 国際ニュース分析

    
【写真左側】ソウル北方の北岳山。ふもとに大統領官邸がある。北朝鮮特殊部隊はこの山間をすり抜けて、官邸に2キロまで接近した。(撮影:1973年6月、当時一般人は撮影禁止だった)
【写真右側】手前の塀は日本大使館、その先は韓国日報のビル。壁に沿う人影は大使館警備の兵士達。文世光の大統領襲撃事件後、日本大使館に連日デモ隊が押しかけていた。(撮影:1974年8月)

オリジナル記事 2002年9月20日掲載

・「おたくの大統領にすまないことをした」

 朝鮮問題の権威あるジャーナリスト、ドン・オーバードーファー氏が1997年の著書「The Two Koreas」で、金日成主席の謝罪の話を紹介している。1972年5月、韓国の李厚洛中央情報部長が初めてピョンヤンを訪問して同主席(当時は首相、労働党総書記)と会談した時のこと。主席が「朴正熙大統領にすまないことをした」と謝罪したという。17年後オーバードーファー氏はこの話を李部長の元補佐官から聞いて、著書に取り入れた。私もまったく同じ話を韓国政府高官から聞いた。それは会談の1年後である。

 1973年6月、私は先輩記者の取材チームの一員として韓国に行った。統一を話し合う南北調節委員会の第3回会談がソウルで開かれた時だ。そして、同委員会の韓国次席代表の張基栄氏に会った。同氏は韓国銀行副総裁、朝鮮日報社長、副首相、日韓会談代表など政治、経済、言論の各界の要職を歴任、当時は韓国日報の社長をしながら南北調節委員会の韓国次席代表だった。取材チームの先輩記者が同氏と入魂の間柄だったことが幸いし、多忙な同氏と夕食を共にできた。その席で、主席の謝罪の話が出た。 金日成主席は1972年5月3日の深夜、李厚洛中央情報部長と会談した。張基栄氏の日本語による説明をそのまま引用すれば、主席は、緊張気味の李部長に対して「一部の跳ね上がり者が出すぎたことをして、おたくの大統領に大変な迷惑をかけた。きつくしかったので、大統領に許してもらいたいと伝えて欲しい」と発言し、4年前の韓国大統領官邸襲撃事件の謝罪をしたという。オーバードーファー氏の「The Two Koreas」は英文だが、その趣旨は同じである。


・夕食会では主席が「お毒見

 私は1975年ソウル特派員になったおかげで、その後張基栄氏とはしばしば会うことができた。日本大使館の隣に同氏の韓国日報の社屋があり、7階が社長室だった。ある時、「このビルは日本の経済協力のほんのおすそ分けを貰ったもの」と言ったことがあった。1965年の日韓国交正常の際、日本は無償3億ドル、有償2億ドルの経済協力をした。張氏が日韓会談の韓国側実力者だったことを考えれば、そんな「おすそ分け」もありそうだった。

 金日成首席の「お毒見」の話もそうした会話の中で出た。張基栄氏が調節委員会の韓国次席代表としてピョンヤンを訪問した時のこと。主席が代表団を招いて夕食会を催した。メニューは丸テーブルを囲む中華料理。給仕が料理を盛った皿を最初に主席の前に置く。すると、主席はそれを箸で少し取って口に入れ、それから韓国代表団に廻した。これを新しい料理が出るたびに繰り返したという。主席が「お毒見」をしていることは、韓国代表団にはすぐ分かった。中華料理にしたのは「お毒見」をするためだったろうと言うのが、張氏の見方だった。


・主席は預かり知らぬという事件

 主席が謝罪した韓国大統領官邸襲撃事件は1968年1月21日に起きた。北朝鮮の特殊部隊員31人が韓国軍の服装をして38度線を越え、厳しい警戒網を次々と突破。先鋒はソウル北方の北岳山ふもとにある大統領官邸に2キロまで迫る。しかし、韓国軍が反撃、1人を捕虜にし、残りは全員射殺した。  韓国側は朴大統領を襲撃した事件として北朝鮮を強く非難し、南北関係のしこりだった。主席の謝罪はこれをほぐし、分断後初の対話を円滑に進めることを狙ったものだろう。特殊部隊の襲撃を「一部の跳ね上がり者の出すぎた行為」として、主席は預かり知らぬこととし、「きつくしかった」と述べて責任者の処分を示唆したのだ。

  この謝罪のしかたは、30年後の日朝首脳会談で表明された金正日総書記の謝罪とまったくと言ってよいほど似ている。日本側の発表によれば、拉致事件について同総書記は次のように発言した。「自分としては、特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走ってこういうことを行った、と考えている。・・・私がこういうことを承知するにいたり、これらの関連で責任ある人々は処罰をされた。これからは絶対にない。遺憾なことであったと率直におわびしたい」

 金日成主席が自分は事件を預かり知らなかったとし、責任者を処分したので許して貰いたいと述べたのと骨子はまったく同じだ。不審船問題についても、「自分は知らなかった、今、検閲を始めている」という説明である。


・韓国政府は主席の謝罪を非公開に

 韓国政府は金日成主席の謝罪発言も、「お毒見」のエピソードもまったく国民に公表しなかった。理由については推測するしかないが、公表によって韓国側が主席の発言や振る舞いを評価しているかのように見られることを警戒したのだと思う。

 オーバードーファー氏の「The Two Koreas」によれば、当時朴正熙大統領は南北対話について「一方の手で敵に触れていれば、相手が攻撃してくるかどうか探ることができる」と側近の金聖鎮元文化広報部長官に語ったという。対話は相手の不穏な動きを探る手段と考え、警戒の目をゆるめなかったのだ。

 その後の南北関係の展開を見ると、この見方は正しかったことがわかる。金日成主席の謝罪発言から2年後の1974年8月15日、在日朝鮮人の文世光が演説中の朴大統領を襲撃、陸英修夫人が殺害される事件が起きた。また、1983年10月には、全斗煥大統領が訪問中のラングーンのアウンサン廟で爆発が起き、韓国の閣僚4人を含む21人が死亡。いずれも北朝鮮工作員が企画した大統領暗殺計画だった。 全斗煥大統領は2年後、張世東国家安全企画部長を秘密裏にピョンヤンに派遣して、金日成主席との首脳会談を提案し、主席も同意した。この時、主席はビルマの事件についても謝罪したのかどうか、今のところ確たる情報はない。韓国側もこうした事件についての謝罪にはこだわっていないふしもある。


・主席の謝罪と拉致に対する謝罪の違い

 張基栄氏は北朝鮮側の要人にもくわしかった。日本の統治が終わった1945年、張氏は29歳。その後の南北の分断で、友人の中には北朝鮮に行った人も多かった。時々、北朝鮮の要人の名前をあげて「あの男は日本の総督府に出入りして、小遣いを貰っていたんだ」などと言った。その口調には、素行のよくない友だちの噂話をするような響きがあった。

 これは推測だが、金日成主席の謝罪についても、張氏の認識はわれわれとは違っていたと思う。それは仲間内の、いわば詫び状とでも言うべきものか、少なくとも、日本が要求されている謝罪とは質的に違うことは明らかだった。

 小泉首相は首脳会談で「我が国が過去の植民地支配によって朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのおわびの気持ちを表明する」と謝罪した。そして、日本はこれから100億ドルとも言われる経済協力の重荷を背負う。

 では、金正日総書記が日朝首脳会談で謝罪の発言をした時、どのような認識だったのか。その筋書きは、金日成主席の謝罪とまったくと言ってよいほど似ている。しかし、その意味するものは違うはずである。拉致という国家機関が犯した罪を、国家として償うことが含まれなければならないからだ。

(持田直武)


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