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9・11テロ事件は防げたのか?
持田直武 国際ニュース分析

2004年4月19日 持田直武

9・11テロ事件調査委員会が「同事件は防ぐことが出来たはず」という趣旨の報告書をまとめる見通しとなった。同委員会が公表した調査資料は、CIAとFBIが連携すれば、犯人のうち2人を事件前に逮捕するチャンスがあったと指摘している。CIAのテネット長官は「我々は間違っていた」と過ちを認めた。イラク大量破壊兵器問題も、9・11事件も、CIAの失態ということになるようだ。


・調査委員会が実行犯2人逮捕の可能性を指摘

 9・11事件調査委員会のケーン委員長とハミルトン副委員長は4月4日、NBCテレビに揃って出演し、7月にまとめる報告書が「同事件は防ぐことが出来たはず」という趣旨になるとの見通しを示した。そして、この見方の根拠となる2つの調査資料を4月13―14日に公表した。1つは、FBIが事件前にテロ実行犯2人を逮捕するチャンスがあったが、CIAとの連携の不手際から見逃したことを示す資料。もう1つは、FBIが犯人グループの1人を逮捕したが、同じようにCIAとの連携の不手際で、彼がテロ・グループの1員と気付かなかったことを示す調査資料だ。

 このうち14日公表の調査資料は、9・11事件の実行犯アルミダハルとアルハズミの2人は逮捕するチャンスがあったと指摘し、その理由を説明している。それによれば、CIAは00年1月、マレーシアでイスラム過激派が会議を開くことを察知し、同国政府に調査を依頼した。その結果、この会議にアルミダハルとアルハズミの2人が出席したことがわかる。会議後、2人はバンコクでビザを取得して米国に入国、その後次のように出入国を繰り返した。

・00年1月5−8日、マレーシアの会議に出席したあとバンコクに行き、2人揃って米国入国ビザを取得。
・00年1月15日、2人がロサンジェルス到着、アルミダハルだけが6月に出国。
・00年10月、イエメンで米駆逐艦コールの爆破事件発生。
・01年6月、アルミダハルが米国入国ビザを再取得、その後再入国。

 CIAは、コール爆破事件の犯行計画がマレーシア会議で練られたとみて、同会議出席者の追跡を開始した。そして01年1月、会議にはアルミダハル、アルハズミだけでなく、コール爆破事件の中心人物ハラドも出席したことがわかる。当時、彼らの所在は掴めなかった。しかし、調査委員会公表の調査資料はこの時点で、彼らを手配者リストに載せれば、01年6月のアルミダハルのビザ取得をキャッチし、米国再入国の際、身柄を拘束できたはずだと指摘する。また、00年1月以来米国に滞在していたアルハズミを逮捕できる可能性もあった。しかし、CIAはこの一連の情報をFBIに連絡しなかったため、警察は捜査せず、入管、空港も警戒態勢を取らなった。


・事態の緊急性を認識しなかった担当官たち

 アルミダハルとアルハズミの2人を逮捕に導く情報はこれだけではなかった。01年5月、CIA担当官がFBIの情報アナリストに連絡し、マレーシア会議に関連のある米国内情報の見直しを依頼する。「時間がある時」という条件付で、緊急性のあるものではなかったが、その作業中の01年7月24日、同FBIアナリストは移民局の記録からアルミダハルとアルハズミの2人が当時米国内にいることを知った。

 同アナリストは、2人を「手配リストに載せるよう依頼する電報」を起案。「2人がニューヨークにいる可能性が高い」とみて、FBIニューヨーク支局にeメールで打電した。しかし、これも「普通扱い、30日以内に結果を連絡されたし」という緊急性のないものだった。調査資料は「もし、この時点で緊急、かつ広範な対応が出来れば、アルミダハルとアルハズミはコール爆破事件容疑、あるいは入国管理法違反などで拘束できたはずだ」と指摘している。

 もう1つ、調査報告がCIAとFBIの連絡不手際として挙げたのが、事件前逮捕され、その後共犯として起訴されたムサウイの例だ。彼は01年8月半ば、ミネソタ州の飛行訓練学校で、「ジェット機の発進だけを勉強したい」などの言動を怪しまれ、FBIに逮捕された。この時、FBI捜査官は彼の身柄を拘束しただけで、彼が使っていたパソコンを押収しなかった。調査資料は、逮捕と同時にeメールの交信記録などを調べれば、9・11事件の進行を察知でき、阻止する手を打てたのではないかとみる。

 しかし、FBIがパソコン押収のため裁判所の押収令状を請求したのは、ムサウイ逮捕から1週間ほどあと。その交信記録を分析して、彼が9・11テロ事件の実行犯の1人だったことがわかり、起訴するのは事件発生のあとだった。一方、CIAは当時過激派の動きが活発化していることを知り、情報を収集していた。調査委員会の調査資料は、その情報が事前にFBIの捜査網に流れていれば、パソコンの押収と内容の分析にこれほどの時間が空費されることはなかったとみている。


・ブッシュ大統領に情報は届かず

 CIAのテネット長官は4月14日、同調査委員会の公聴会に出席し、「我々は間違っていた」と頭を下げた。同長官はまた、「テロ組織の実態把握など取り組み面では間違っていなかったが、9・11事件の計画を事前に把握できなかった。中でも、CIAが実行犯アルミハダルとアルハズミの2人をマークしながら手配リストに載せず、米国入国を許したのは、組織的な弱点の現れだった」と釈明した。そして、その組織的な弱点の例として、テロリストに関するデータベースは4つあるが、互換性がないことや、手配リストは10を越すほどあって混乱していることなどをあげた。

 テネット長官はまた、「FBI捜査官が共犯のムサウイを逮捕したことを1週間後の01年8月23日か24日に部下の報告で知ったが、その事実をブッシュ大統領にもFBI上層部にも知らせなかった」という事実も明らかにした。同長官はその理由として、この件は「ホワイトハウスのテロ対策会議が扱う情報」、つまり価値の低い情報と判断したためだと釈明した。FBI内でも、この情報は国際テロ部で足止めされ、当時のFBIのトップ、ピッカード長官代理がそれを知るのは、事件が起きた日の午後になってからだったという。

 一方、ブッシュ大統領は4月13日の記者会見で、「振り返って見れば、ああすれば良かったとか、こうすれば良かったというものが我々にもある。しかし、あと知恵で言うのはやさしい」と述べた。同大統領は就任した01年1月から事件が起きる9月までの間、テロの情報があったのに十分な対応策を立てなかったと批判されてきた。特に、事件1ヶ月余り前の8月6日、CIAがビン・ラディンの新たな動きを報告したのに対して何の手も打たなかったとの批判が強かった。

 これに対し、ブッシュ大統領は「CIAの報告では、テロが起きる場所、時間などが特定できず、防ぐ手を打つのは無理だった」と釈明。4月10日、問題のCIAの報告文書を慣例を破って公開した。その結果、この文書がアル・カイダのハイジャック作戦や米国内の爆破計画の情報などに触れているものの、ブッシュ大統領が言うとおり場所や日時の特定がなく、防御措置を取ることは難いことが明らかになった。そんな時、調査委員会がCIAとFBI糾弾の調査資料を公開、CIA長官が「間違い」を認めた。ブッシュ大統領が対応策を立てられなかったのは、正確な情報を報告しなかったCIAに責任があるという風向きになったのだ。


・CIAが責任を背負い、ブッシュ再選には好都合か

 ブッシュ大統領が13日の記者会見でCIAの改革に言及したのは、こうした状況を踏まえたものだ。9・11テロ事件調査委員会もこの大統領の姿勢を歓迎した。同調査委員会は02年11月、議会の決議で設置され、共和、民主の両党から5人ずつ、計10人で構成し、委員長には共和党のケーン前ニュージャージー州知事、副委員長には民主党のハミルトン前下院議員が就任した。多数のスタッフを使い、事実調査と公聴会で関係者の証言を集め、事件の解明と今後の対応を探るのが目的。日本軍のパールハーバー奇襲、ケネディ大統領の暗殺事件、この2つの調査委員会に次ぐ、3つ目の歴史的な調査委員会と言われている。

 ただし、パールハーバー奇襲、ケネディ暗殺の際の調査委員会とは違い、この9・11テロ事件調査委員会は調査の過程を可能な限り公開することを建前としている。4月に入り、ケーン委員長とハミルトン副委員長が揃ってテレビに出演したほか、2つの調査資料を公表し、同時にCIAとFBI関係者を招いて公聴会を開いたのもその趣旨に沿った試みだった。ブッシュ政権は当初、議会の調査委員会設置の動きを警戒し、調査に協力的でもなかった。ライス大統領補佐官の公聴会証言や、8月6日のCIA報告の公開を長い間渋ったのはその現われだった。しかし、同報告を公開したことで、結果的にはブッシュ政権の主張にも理由があり、非はむしろCIA、FBIなどにあるとの見方が強まった。ブッシュ政権にとっては思わぬ救いの神の出現である。

 民主党は、ブッシュ政権がイラク大量破壊兵器に幻惑され、足元のテロの脅威を軽視し、9・11事件を招いたと非難してきたが、非がCIAやFBIにあるとなれば、これは説得力を欠くことになりかねない。折も折、ワシントン・ポストのボブ・ウッドワード記者が、イラク開戦にあたって、テネットCIA長官がイラクに大量破壊兵器があるのは、Slam Dunk(絶対間違いない)と保証したと指摘する新著を出版する。9・11テロ事件も、イラク大量破壊兵器問題も、CIAに責任があるということになれば、再選を控えたブッシュ大統領には幸運な成り行きと言うほかない。


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